社長のコラム(2016年7月)
2006年から、雨の日も、風の日も、ずっと、書き続けています。
- 私は今(日曜日の午後)、福岡から佐世保へ向っているバスの中。昨日の朝から先程まで福岡の店舗で勤務し、今から佐世保の店舗で勤務する。先程、私にはいくつかの選択肢があった。その①=そのまま福岡の店舗にて勤務...その②=佐世保に戻り勤務...その③=どちらでも勤務せずに福岡で好きなことをして発散。元々、今日は私にとって週一回の貴重な休日だったので③を選択してもよかったのだが、総合的に考えた結果②を選択した。私は何かを選択する際、簡単には決めきれない。一番したい事は③だったが、もしも、お客様の来店があったら困る。したい事をしないとストレスへの影響があり後々響いてくるかもしれない。以前のコラムにも書いた3種類の疲労(身体的疲労・精神的疲労・脳疲労)の何を優先的に楽にさせてあげるべきか?これから数ヶ月はほとんど休めなそうなので倒れると一番マズイとか...!早く自宅に帰って家族サービスをすべきではないか?今しか出来ない事を優先させるべきではないか?等色々...。挙げ句の果ては長期的な人生への関わり方までキリが無い。既に引き返せない今でも、間違った選択をしたのではないかと思っている。(7/31)
- 軍事産業では、一企業ではなく数社の力をあわせなければ武器を製造する事が出来ないらしい。ミサイルを一つ作るだけでも各企業がそれぞれ1パーツだけを賄い組み立てられる。これは企業が暴走してしまうなどの危険性への配慮から一企業だけで武器を製造できない様にルール化されているのだろう。これに限らず、世の中にあるものの多く、もしかしたら全てのつくられたものや産まれたものは単体では成立しない。現に私達一人ひとりは何かが足りない状態で世に放たれている。それは子孫を残す為という問題に限らず、生きていく為の全般に関わる。人は自分自身が苦手としている事を得意な人に依存する。そして、得意な分野で苦手な人を助ける。私達は誰かを助けたり誰かに助けられ相互依存の関係の中に生きている。一見、得意な事がなさそうな人でも、自覚していないだけだったり、誰かの心の支えになっていたりするのではないか?弊社の経営理念の中でも謳っているが能力があるかどうか以上に、その行為が善意によるものかどうかが重要であると思う。不得意なことを自覚する事で優しさが生まれ、自らの得意な能力で誰かを助けたいという気持ちが起きるものでは?(7/27)
- コア・コンピタンス (Core competence)=企業の活動分野において「競合他社を圧倒的に上まわるレベルの能力」「競合他社に真似できない核となる能力」の事らしい。弊社には顧客に特定の利益をもたらす技術、スキル、ノウハウはあるか?それについては、同業他社を圧倒する何かを持っていると自負しているが、それが何かについて文字や言葉に置き換える事が容易ではなく、正確に理解させる自信はないのでこのコラム内では言及しない。矛盾するかもしれないが、私は日々、弊社のコア・コンピタンスを顧客へ直接伝えるだけでなく、スタッフを経由して顧客へ伝わる様に努力している。例外にはスタッフ以上に顧客の方がそれを理解される場合もある。理解度のバロメーターは言葉による反応とは限らず、それが何なのかもよく説明できないが伝わったと確信出来た時の気分は言い表しようがない。スタッフには単に商品を販売するのではなく、弊社のコア・コンピタンスを顧客に気に入っていただける様に日々励んで欲しいと願っている。コア・コンピタンスというものは生ものであり油断していると低下したり需要がなくなったりもするので、進化させなければ...。(7/24)
- 人と人が関わる事によって化学反応の様な現象がおきる事がある。ここで言う反応とは単純に好き嫌いの相性だけを言っている訳ではなく、お互いの影響力全般をいう。当然、良い影響と悪い影響がある。何かの目的を達成する為に、各人の能力が「1」だとすると、二人があわさる事によって単純には「2」になるはずなのに、お互いの影響によっては大きくも小さくもなる。超人的な能力を発揮する人を否定できないが、集団の中では、たとえ一人で平均の何倍もの能力を持つ人がいたとしても、周囲への影響によっては、その超人的な能力は合算されるどころかマイナス効果を及ぼすかもしれない。一人ひとりが、目の前にいる身近な相手に対しては勿論の事、広い意味で言うと社会全体への関わり方によるものだと思う。簡単に言うならば「利己主義」な考え方が強すぎる人が一人でもいると集団は弱体化する。色々な要因がある中でも、ストレス(精神的なダメージ)によるものが最も大きい。だからこそ、私がつくりたいチームは周囲に元気を与える事ができる人の集団である。また、受動的に言うとしたら元気を与えられているという自覚をし感謝できる人の集団でもある。(7/22)
- 「どの色が好き?」「どの色が嫌い?」...。その答えをいただいた上で、各色の好きな面と嫌いな面をお聞きする。「好きな色の何が好き?」「嫌いな色の何が嫌い?」という質問をしてみると自然に答えやすいが「好きな色の何が嫌い?」「嫌いな色の何が好き?」という様に思いの逆側を答えるのは簡単ではない。私が誰かのカラーコーディーネートをするとして、相手の方へ好きな色と嫌いな色をお聞きしてお答えいただいたが、最悪にも相手の方が好きな色はその方には全く似合わない色であり、嫌いな色が最もお似合いの色だった。究極の判断になる事は言うまでも無い。似合うかどうかを無視してご意向に沿う事を重視すべきかどうか?私は相手の方の好きな色と似合う色をマッチさせる為の努力をするが、その努力が届かない場合にどうするかは決めきれない。こんな時にもう一段手前に問題があるのではないかと考える。私の色彩感覚がずれていたり、勉強が足りなかったり等してはいまいか?...。私はいつからか自分自身の主観の影響力が悪影響を及ぼす事を学び、好きな色のデメリット、嫌いな色のメリットを見つける様にしている。(7/17)
- 21時33分発だった電車は、たった今、1時間4分遅れで博多駅を出発。電光案内板には何故か佐世保行だけが突出して遅れている表示。佐世保行き以外の電車は10分程度の遅れなのに!6月にはJRではなく高速バスで同じ様な事があった。佐世保行きだけが最後まで復旧せずに取り残された事は6/23のコラムに書いている。前回も今回も大雨の影響によるものであり、聞くところによると今回の遅れは長崎市行きを優先させる代わりに佐世保行きが犠牲になったらしい。とても損した気分!ダイヤの乱れを取り戻す為にはそれが最善の策だったのだろうから仕方がないが...。こんなアンラッキーなダイヤの乱れは仕事上の流れが悪い時を連想させる。例えば、誰かがミスをして、それをフォローしていたら、他の業務に遅れが生じ、その影響で別のミスをするという様に負のスパイラル状態が続く。こんな時は、何かを犠牲にする事でしか全体の流れを取り戻せないケースがある。捨てる覚悟が必要になっていく。取捨選択とは、悪いもの、不必要なものを捨てて、よいもの、必要なものを選び取ること。私たちには連続する取捨選択に対応し続ける判断力と勇気が必要だ。(7/13)
- 「目は口ほどに物を言う」ということわざがある。その意味は、言葉に出さなくても、目の表情で相手に伝えることができるとか、言葉でうまくごまかしても、目に本心が表れるというものである。目と口の関係はそれ以外にも「口は笑っているが目は笑っていない」とも言う。鏡を見ながら無理に笑おうとして口元を笑ったように見せるのは簡単だが目は笑えない。そういう事で目は口よりも正直である事がわかる。犬で言うと尻尾!?野生の猿と目を合せてはいけないと言われている。それは、威嚇されたと思って飛びかかってくるかもしれないからだ。人間の中にも特殊な人は「ガンをつける」とか言って喧嘩している人もいるけれど、目を合わせる事は悪いことなのか?私は基本的には目が合う事は嬉しいけど...。特に私が話をしている時に、私の目を見てくれて話の内容に応じてうなずいたり、微笑んだり等表情が変わると嬉しい。意思疎通できた喜びを感じる。そうかと言って心なく無表情で目線を合わせられても嬉しくないけれど...。コミュニケーションには良質なアイコンタクトがいかに大切である事に間違いはない。(7/9)
- 今日の午後、福岡天神ルームの窓から外を見るとギターを持った浴衣姿の男性が...。はじめは面白い格好している人がいると思いながら見ていたら、20歳代の女性達が携帯片手に集まりはじめて、私もすぐに店の外に出てみた。なんと、本物の波田陽区さん。いつも、テレビで見ていたギター侍が目の前に!私は滅多に当たらないくじを引いた様な喜びを感じた。普通はこの段階までで、写真を一緒に撮らせて下さいとでも言おうものなら、睨まれて終わりという感じになるものだと思っていた。そしたら、気持ちよく「どうぞ」って言ってくれて、逆光になりそうになるという事で向きまで変えてくれる凄くいい人だった。これまでも面白いと思っていたものの他のお笑い芸人の方と差をつける程でなかったが、今日からは応援したくなり、その一歩として、Twitterを拝見しフォロー。私が応援したところで微々たるものかもしれない。こんな時、私はもしもの世界を想像する。その想像の多くは、水戸黄門と同じ様の流れと大差はなく、小物に見えるが実は大物という私に親切にしてくれた人に恩返しをしたり、その逆に悪い奴を懲らしめたり...。(7/6)
- 小学生が何かを伝えようと話をして、大人はその話を聞いてあっさりと理解度を示す。正しく理解されていたら良いのだが、間違っていた場合、小学生は再度身振り手振りで説明を繰り返す。それでも、解ってもらえない場合、その小学生はどんな気持ちだろう?きっと、自信喪失するとともに理解してくれない相手と自分自身への苛立ちが混ざったようなストレスを感じている事だろう。特に兄弟や友達に濡れ衣を着せられて「そうではない!」と大人に説明するも「言い訳するな!」と怒られている小学生の心の傷は大きいはず。この小学生は今後、同じ様なシーンでどうするのだろう?その1=学習能力がなく現状維持、その2=暴力で解決する等の悪化、その3=改善、その4=・・・という感じでその人次第。その3の改善にも色々な方法がある。説明能力のレベルを向上させずに説明内容のレベルを低下させるか、その反対に内容を変えずに説明力を上げたり等...。内容のレベル低下をさせるという事は伝わりやすい代わりに真に伝えたいものの一部や表面だけしか伝わらない懸念がある。結局は自分の理解力と説明力と信用力、相手の理解力などのバランス調整なのだ。(7/3)
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